イギリスで徒然草(旧・ランカスター日記)

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口頭試問は

口頭試問が5月11日に決定しました。
論文提出は4月8日〆切。

本当は今頃には提出して、二週間ほど
日本に里帰りしようと思っていたのですが
日本がそんな状況ではなくなってしまいました。
論文は与えられた期限を有効に使って
手直しして4月に出します。

まさか自分がイギリスにいる間に
母国がこんなことになるとは思いもせず、
憔悴して精神的に疲弊しています…
けど、とにかく博士を終わらせなくては。

せめてイギリスからでもできることとして、
少額ながらヤフージャパンから募金しました。
物流状況が落ち着いたら、楽天(海外発送)で
買い物して日本経済に貢献します。

日本愛してる。がんばれ日本。

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Prayer

東北沖地震・津波、家族の無事が確認できました。本当によかった。
私の知ってる人々、その家族・友人たちがみんな無事でありますように。
無事でいてください。


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私の英語学習履歴

スライド作り終わりましたー!けっこう詰め込んで29枚になった。
どう考えても20分で終わる量じゃないんだが…
まあいいや。明日の午前中も練習&手直しできるし。
シャワー浴びて早く寝よう。

ところでスライドを作るのと同時進行で
今までの生活をいろいろ振り返っていて
ふと書きたくなったので、今更ですが書いてみようと
思います:「私の英語学習履歴」。

英語教育の輪でひそかに企画されていた
この企画(クリックでリンク飛びます)。
できるだけ3月1日投稿とありました…が
今ひっそりと書きたくなったので書いてしまいます。

蘭華の英語学習履歴

中学入学の12歳まで、両親が好きな洋楽をたまに耳にする以外
英語に触れたことはありませんでした。
最初は文字と音の関係が必ずしも一致しないことに苦戦し、
中学一年時は英語はわりとキライな科目でした。

筆記体の練習なんかは大好きでしたけど、
たま~にあったネイティブ(ALT)の先生の授業
(週一回あったのか?もはや記憶がない)は
オールイングリッシュでまったくちんぷんかんぷんで
ALTの授業は大嫌いでした。
授業の工夫も大してしているように見えなかったし
「ネイティブだからって楽してんなー」とか
思ってたかもしれません。やな奴ですね。

中学で英語を最初に担当してくださったH先生が
1年の後半?2年になってから?だったか、
授業時間以外にも放課後などに

教科書暗記→先生の前で暗唱→ハンコもらう

というのを推進していて(成績の一部だったかな?だったような気がする)
ハンコがもらえるのが嬉しくて頑張りました。
そのあたりからだったと思います、成績が伸びて面白くなってきたのは。

H先生は発音が大変綺麗でいらして
さまざまな手法と工夫をもって、40人越えクラスではなかなか難しい発音練習なども
見事にmanageされていました。
H先生に中学英語を習えたことは大変な幸運であったと今でも思います。

H先生はのちにG芸大で修士課程に入られ、
ちょうど私がイギリスに来る直前にあった全国英語教育学会で
再びご挨拶することができました。
まったくお変わりない美しさと現場への情熱に
脱帽の思いでした。

私は中学ではいじめを受けていたこともあり
(いじめ開始時はH先生が担任)、
ご心配をおかけしましたがとりあえず
道を踏み外さずに成長しました、と
ご挨拶できたことが嬉しかったです。

高校では、中学で遭っていたいじめの首謀者と
その近い取り巻きとは離れられましたが、
同じ中学から上がってきた生徒も相当数いたので
中学時のレッテルを払拭すべく「高校デビュー」も
できず、鬱々とした日々を過ごしていました。

かなりの進学校だったため、それまで中学では一応上位にいた
成績が一気に低空飛行になったことも
憂鬱の原因でした。
同レベルの進学校に進んだ姉は成績に問題があったことなど
なく、両親は「落ちこぼれ」な娘が理解できず苛立ち怒るばかりで
どこにも居場所がない、こんな高校来るべきではなかった、と感じていました。

そんなわけで高校生活が楽しくなく、逃避願望が募っていた頃
高校の掲示板で目にしたのが交換留学生の募集要項。

両親も、「できない子ども」を理解できないなりに
鬱々と過ごすばかりの私をとても心配していて、
試験を受けることを後押ししてくれました。

この、交換留学生としてアメリカの(ド)田舎で過ごした一年が
人生の転機となります。

それまでの私は、いじめで無視され、嘘をつかれ笑われ、
人を恐れるようになってから
ごくわずかな友人を除いては
人の輪に入ることを極端に恐れ、
会話の話題の発展の仕方、つまりターンの取り方、
質問されたら回答を肉付けして次につなげる、など
不文律・だけど超重要な、会話のpragmaticな面が
まったくダメな人間でした。

それが、日本語を話す人間が本当に1人もいない町に
飛び込み、そこでうまく生活していくべく頑張らねばならない
状況に。

幸運だったのは、ホストファミリーの老夫婦(高校生の孫アリ)
がとてもいい人たちで、どうしようもなく自信のなかった私の状態を
すぐに見抜き、「どうせやってもできない」
「受け入れてもらえない」「失敗したらイヤだ、怖い」と
萎縮する気持ちを和らげ、常に励ましてくれたことでした。

最初のうちこそ、「どうしてこの人たちは
こんなによくしてくれるんだろう」
「本気で褒めてるわけないよね、なんだかんだいってお客様だしな」と
懐疑的に思っていましたが
親子喧嘩もするようになり、かつ狭い町の中で
親戚だらけ・友人だらけなので「みんながみんなを知っている」ので
「誰それがうんたら」という話はすべて筒抜け。
そんな中で、どうやらホストペアレンツが本気で
私をとても可愛がってくれているのだということが
わかってきたのでした。

そんなふうに手放しで、どこの馬の骨ともわからない自分を信じ、
励まして可愛がってくれる人がいるなんて。
もしかして私は彼らの言うように、いい子なのかもしれない。
できる子なのかもしれない。

自分の、自分に対する意識が変わりはじめました。

ド田舎というのもすごく良かったのだと思います。
人々がよりローカルなつながりや功績を大事にしているので、
都会の進学校のものさしで測ったら
全然大したことのないachievementが、手放しで褒めてもらえる。

まさに「井の中の蛙」状態なわけですが、
おそらくこれを経験することが私には必要だったのだと思います。
やればできる。ちゃんと褒めてもらえる。
小さな功績でも、比べて貶められたりしない。

だんだん新しいことに挑戦するのが怖くなくなり、
クラブ活動、演劇やバレエも通して友達が増えて
英語力だけでなく、
欠如していたコミュニケーション能力が伸び始めました。

こうしてアメリカのホストパパママに「育てなおし」をしてもらい、
一年後、日本に帰る頃には増えた自信と日本の家族への感謝の念と、
飛躍的に伸びた英語力をもって凱旋することができたのでした。

アメリカにいる間、国語(=英語)の授業の単語が難しくて
レポートもうまく書けずいつも半泣き状態だったり、
どうみても一目で異端人なので好奇の目はもちろん
人種差別とセクハラが混ざったような言葉を投げかけられたり
悪いこともたくさんありましたが、この一年を乗り越えて
取り戻した、一個人としての自尊心が今も私の大きな支えです。
あの一年がなければ、そう遠くないうちに家を飛び出して
不良になり、バイク事故なんかでとうに死んでいたかもな、と
半ば本気で思っています。

大学に入ってからの英語学習はその2に続く・・・かな?

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模擬口頭試問

次の火曜日に、言語テスト研究会にて
模擬口頭試問をやってもらいます!

研究会の伝統ということで、過去三年間
先輩方の模擬口頭試問を見ながら
「私もいつかは」と思ってきたのが
ようやく実現します。

指導教員がここ半月ほど
高飛びしているらしく音信不通なのもあって
論文の最終形態にGOが出ておらず
まだ提出はしてないんですが、
春休み明けわりとすぐに本番をやるつもりなので
決行しちゃえ、ということになり。

模擬審査員につっこまれたところを補足して
結論で書いて最終形態にしたっていいわけですし。

本番の口頭試問は、内部審査員と外部審査員の
先生と、私と(望めば)指導教員で
論文のあれこれに質疑応答が行われるわけですが、
模擬では

・20分間のプレゼン(模擬審査員は論文を読んでないため)
・あと1時間くらい質疑応答

となります。
スライド作り中ですが、博論を20分でまとめるって
かなりの無茶振りです…。

いろいろさぼってた時期もあったけど、
けっこう自分頑張ったな。
あとちょっとだ。

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